こぶれ 2024年2月号
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一路平安(内示を受けた)6年1月1日付で編お正月気分のぬけない新春。それに合ったおめでたい、おめでたいお話を……サービス心であれこれ考えるが、ない、ない。辰年、年男の気負いもあってか、筆よりも着想も浮かびません。気分転換、裏庭の草木をながめているうちに、そうだ……!平成5年12月末の長崎新聞紙面で集局長昇格の辞令がありました。このポスト、入社以来思っていたことがあります。社長になるよりこれだ、と。筆一本で勝負し、このゴールに飛び込めば、記者冥み利りに尽きる。1月1日のポストも縁起がいい。新聞社の宝を手にしたワクワク感。好事魔多し。と言うのも平成二年、東京支社から十年ぶりに報道部長でもどった時に雲仙普賢岳噴火の手強い洗礼。ょう先の太平洋戦争よりも長い戦い。その取材と記者たちの指揮。厳しくしんどい言葉以上のものでした。右翼団体から新聞社玄関に裁判所とともに撃ち込まれた銃撃事件。後年、本島等長崎市長が天皇発言問題で銃撃された同じ団体。地元テレビなどのインタビューで「暴力にはき然と闘う」など見栄を切っていた若さに「ヤバかったなぁ」と。噴火災害まではなかったが、長崎市内をはじめ県内に家屋屋根に被害に遭ったブルーシートでおおわれた大型台風まで、数えあげたら切りがありません。1月1日付けの就任あいさつで 「二死満塁ならぬ無死満塁しかも打順はクリーンアップを迎え、突然、登板を命じられた救援投手の心境です。〝売れる新聞づくり〟に緊急かつ最大の課題を迫られています」と当たりさわりのないものでした。このためになにをするのか。 「新聞本来の仕事であるニュース取材にエネルギーを燃焼させるという原点の確認。新聞づくりは格闘技だ。編集局員がその持ち場で日夜格闘する。それがまた紙面づくりにつながると確信します」。これを聞いた局員たちの「?……!」。気抜けしたかも、ですね。最後に「県民とともに」という郷土紙の使命を力まず、気負わず〝第一球〟を投げてみます。パラパラと小さな拍手があったようです。と、こんなことをしゃべった記憶があります。まぁ、よくおぼえていたと、自分なりに感心しています。で一月一日、以後のおめでたい話。これが何もないようです。この後、十年余で退社するまで、報道部長時の荒事がなく、平穏無事。平凡な毎日でしたな。何もないことはいいこと。急遽、おめでたい話から題名も変え「一イ路ル平ピ安ア」で新年のごあいさつとします。   0000   ンンー   0000 0000             2著・三軒茶屋ニコみどりの風

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