ば う 2鄧と小平さんの娘べ″が開かれ芸能などアトラクション台湾問題など世界の注目を集めている中国の覇権主義をながめながら、 のどかな昔話をいたします。昭和45年でしたか中日友好の船訪日団の長崎寄港を思い出しました。薄れいく記憶をたどってのこと。 中国客船明華号で長崎寄港、団員約六百人が県内各地を視察、長崎空港、SSK、長崎市内では三菱造船所、 長崎中学、夜は公会堂で″中日親善夕で和やかな交歓も。子供の頃から憧れていた雄大な風土と底知れぬエネルギーを秘めた人間像を背景の西遊記、水滸伝の物語の世界にどっぷり。興じて学生時代は中国語を専攻、ただ中国語には″四声″があり一つの語の発音で″四つ″の語になる難物があり会話はムリ。読む書くことしかできません。世の中も捨てたものでなく、これを武器に取材でいい特ダネにありつきました。訪日団員に鄧副首相(当時)の娘さんがいる、という聞き込み。血がわきました。カタコト並みの武器を駆使、走り回っているうち探り当てた。グラバー邸。シャツにスラックス、ローヒール式のサンダル、手に日本製のカメラと軽装。鄧小平さん似で黒ブチ眼鏡の奥が優しくほほえんでいました。 「全国各地を回ったが、特に長崎は気持ちが合う。それは景色がいいからです」と長崎の印象を一言。画家の鄧林さん。花鳥山水画の林さんは、異国情調のナガサキに画興を誘われたのでしょう。鄧小平さんは三度の失脚から復活した政治家。建国した毛沢東の死後、後継者である華国鋒から実権を奪うい、事実上の最高指導者となり「改革・開放」政策を推進し、市場経済を図るなど中国の現代化建設の礎を築きました。林さんは「父はとても私たちを愛し、尊敬しています。それは人柄にあるからでしょう」とあたりさわりのない言葉が印象に残っています。ご主人は技術者。一人息子さん(当時五、六歳)に「お土産品は算数の計算ができるオモチャにしました。坊やもすぐに学校ですからネ」。長崎での心残りはスケッチできなかったこと。グラバー邸でスケッチ中の女学生が目にとまり、しばらく後ろで鑑賞。きっとムズムズと食指が動いていたにちがいない。 「長崎は昔から親近感のある町。それだけに名残惜おしい。もし機会があれば、次は是非、長崎でスケッチして回りたい」と。中国でのんびりと絵筆をとっているおばあさんが浮かびます。余談ながら、他社の記者が鄧林さんのことを知ったのは、中国に向け帰路中だったと聞いております。船影に再見(さようなら)……著・三軒茶屋ニコみどりの風
元のページ ../index.html#2