三月十日、長崎市で桜満開。居間の壁に「平和な春」の習字がはってある。孫の小学六年時の習字。課題を書いたものでしょう。筆太の字で技巧に走らず、素直な筆運びがいい。三年前の書。コロナ禍が都内から全国に拡大する直前。きっとこの頃は平和な春。それから三年、子供の成長は早い。今春、高校生。偏差値はかなり高いと聞いていたが難関高を突破ですか。蔵書の整理を昨年から始めています。二冊の本を除く山積している本をゴミ捨て場に持参中。二冊の本。これは孫が十八歳になればお祝いに贈るつもりでした。これは、いずれも日本新聞協会の「新聞研究」。大仰ですが「筆者の人生これにあり」の貴重なもの。他人様には一銭の価値もない代し物もでしょうが。一つは、一九九五年八月号。戦後50年、地方で語り継ぐ戦争のテーマで被爆地二紙、中国新聞(広島)と長崎新聞両紙の編集局長対談。約2時間。中国が後に社長になった今中亘さん、長崎が筆者。新聞研究でも初の企画。内容は割愛しますが、被爆後、五十年の巻頭特集。大きな節目で体験を語る切迫感。被爆者の(当時)平均年齢が70歳。体験を語る最後の機会を踏まえた報道の流れと紙面。広島は全滅。長崎は金比羅山にガードされ分断。北部が全滅。両紙の温度差が紙面づくりにあると事実認識。率直な会談は筆者にもいい体験でした。もう一冊は、一九八六年一月号のエッセイ「握手」。ゴルバチョフ時代のソ連外相シェワルナゼ氏が初来日。本島等長崎市長とソ連大使館でのスクープ会談。会談後、外相との握手。記者クラブなどの猛烈な批判、追求を「握手が外相が認めた唯一の証明」と居直り逃げ切った冷汗もの。ソフトな読物。この二冊、孫の入学祝いに決めました。将来「記者とか新聞関係の仕事をやれ」と言うことでなく、「文は人。それが筆者の分身を血縁の孫が分かってくれる」か、生き方を知って欲しかったからです。難解と言うのでなく、常識を知った十八歳の時に贈るつもりでした。今後三年間。筆者にとって加齢、体調など考慮、もしも二冊の本を〝忘却〟すればお手上げ。今が最適と踏み切りました。余談ながら春、秋の天皇、皇后ご出席の「園遊会」に平成十七年十月二十七日、日本新聞協会推薦で招待されたのも「二冊の本」が大きいと考えていました。地方紙の場合、社長就任時以外は、異例のことでした。題名の「平和な春」にからめて、局長対談で日本国憲法で戦争の永久放棄をうたった第9条の「平和憲法を世界に堂々とアピールすべき」と力説したのを、ふと思い出しました。 ろの 2平和な春著・三軒茶屋ニコみどりの風
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