島原・天草一い揆きを描いた諫早市出身の脚本家・市川森一さんが長崎新聞に連載した小説「幻日」の舞台となった原城跡など南島原市のゆかりの地をテレビ制作に携わった人らが昨年巡り、市川さんをしのんだ記事を思い出しました。島原の乱については硬派の「島原の乱・キリシタン信仰と武装蜂起」(神田千里著・中公新書)をやっと読破したところだった。作家・池波正太郎さんの島原の乱関係の聞き語りの軟派ものも読み返しました。 ―寛永十四年という年は大変な凶作。過酷な重税、凶作、キリシタン弾圧、これらが重なって農民たちが困苦のどん底にあった。島原藩主・松倉重政はキリシタンに対するだん圧がひどかった。この地方に奇妙な流言が飛んだ。「やがて天の使いの少年が現れるであろう。イエスの教えはここから全土にひろまるであろう……」と。陥おします。武士という軍人の情けなさそうした状況で教えを説いた益田四郎時貞。俗にいう天草四郎。これがすばらしい美少年だったから農民はこれぞ予言された天の使いと信じたわけです。十月の二十三日、まず島原市内で農民が代官を殺し、付近の村々から農民が集まって一揆を起こし島原城を襲撃したそうです。それに呼応して天草でも一揆が起こる。とうとう天草四郎を総大将とする一揆の連合軍。といっても、みんなお百姓さん。総勢三万七千が島原半島の古城を修復してたてこもった。幕府に反乱の報告が十一月初旬。将軍家光は板倉重昌を上使として反乱軍の鎮圧を命じたが、手におえません。武士もだらしないが、相手は武器なんてない農民。改めて老中・松平伊豆守信綱を総司令官として派遣。板倉重昌は面子もなく憤死。伊豆守はオランダ船にお願いして城の砲撃も行うが〝決め手〟がなく一揆軍の自滅を待つだけ。春になった二月末にやっとこさ城をも暴露した一幕。島原の乱については諸説ありまして、書きたいこと語りたいこと色々ありますが新年早々大きな掘り出しものがありました。家人のファミリーストーリーにも及びました。執筆したのが畏敬する長兄で長崎市内の自動車販売会社元専務・津田純雄さん。 「バァチャンを讃える辞」の主人公祖母・ノシさん。明治維新前に小浜町北野在古賀町に生まれ、後年、長崎市内の中心部・万屋町でロウソク屋をいとなむが、その始祖が島原の乱の時にさかのぼる。島原の乱に沸き返る反乱軍・天草軍から誘いを受けるが、逆に反乱軍には入らず付近の百姓をまとめ収拾に走る。命がけのことです。その功により名字帯刀と「津田」姓を賜り、津田太郎左衛門を名乗り、門構えの素封家として名高い。当時としては「強いもの」の流れにつくのが気安い。これを拒み戦乱の先を読む、実にすごい生き方を年頭にいただきました。世界混迷の現代に通じる教訓を。ファミリーの島原の乱 と っ 2著・三軒茶屋ニコみどりの風
元のページ ../index.html#2