二百十日。立春から数えて210日目。9月1日ごろにあたる。台風襲来の時期で稲の開花期にあたるため、農家の厄日とされている。今季も最強の台風11号が本県を含めた沖縄・九州を強襲しました。筆者にとっての9月1日は、人間の生き方の教訓的な日です。西彼時津町打坂の国道206号沿いにお地蔵さんがある。石を積み重ねた台座にこんな言葉が刻まれています。「―自ラ乗客三十有余ノ生命ニ代ワリテ散華セリ享年二一歳」。昭和二十二年九月一日、そのころ一方が崖(がけ)になっていた打坂で、転落寸前の満員バスを救った車掌がいた。自ら輪留めになり殉職した長崎自動車の鬼塚道男さんを慰留するお地蔵と碑文。この悲話をラジオで知った名古屋在住の元教師が「感動で胸が詰まり涙が止まらなかった」。教職者としての職業意識が鬼塚さんの少年時代に走った。休みを利用し母親など関係者を取材。一気に書き上げ昭和四十九年「愛の地蔵」として出版しました。鹿児島県出身の一見弱々しい少年時代から愛と勇気の行動で終わる短い一生を追っています。そこには真に優しい人間こそ強い人間という信条の確かさも立証されています。 「現代社会を反映し今の子どもたちは利己的で損することをしない傾向にある」だから鬼塚さんの優しさと正義感を知って欲しい、という教育者の熱情と願いが切々と文中にあふれています。こんな折、約百四十年前、新上五島町有川郷(当時の有川村)でまん延した伝染病(コレラ)で患者を救護し自らも感染し殉職した小西喜代三巡査の命日に新上五島署が慰霊式典をした記事(長崎新聞七月十五日付)が目に釘付けになりました。小西さんは薩摩藩の士族出身で当時の福江署有川屯署に勤務中、コレラから住民を救うため看護と防疫に携わったが二十五歳の若さで命を落とした。本県警察で感染症による初の殉職者という。署員らは「新型コロナがまん延している今、小西巡査の崇高な精神で、必死の覚悟で奔走された姿を想像するたびに、悲哀と熱い感涙がこみ上げます」としのんでいた。筆者は一日、鬼塚さん、小西さんも共に鹿児島出身。尊い人間らしい心の持ち主である生き方に改めて合掌しました。 2尊い心の持ち主著・三軒茶屋ニコみどりの風
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