雲仙・普賢岳噴火災害で43人が犠牲になった6月3日、大火砕流から31年を迎えました。筆者には忘れえぬ〝あの日〟が2つあります。8・9の長崎・原爆祈念日と6月3日のそれです。東京から本社に帰崎した平成二年の秋、数百年ぶりの普賢岳噴火。煙が天にたなびくという風景に大惨事は予想できませんでした。それでも県内支局含め記者総動員体制でのぞんでいました。6・3の大火砕流は、名状しがたく筆舌に尽くしがたい大事件でした。 ―当時、島原第三中学・谷口智憲君(十四)にとっても忘れられない日に。それも「これまでに最も悲しい出来事」に遭遇。午後四時すぎ雲仙・普賢岳火口東側斜面で最大規模の火砕流が発生。死者・行方不明者43人の被害を出した。その時、テレビ生中継に釘づけの智憲君は、父が「逃げろ! ……」と叫んでいるのを聞いた気がしました。悪い予感が当たった。消防団員だった父も犠牲に。「とても寂しげな顔をしとったとよ」。その朝、車に送ってもらった妹が、その別れざまを語ってくれました。父の誘いに「一緒に送ってもらえばよかった」と。大惨事の後、むなしさが襲おう。一家の大黒柱であり、家族や町内の人たちを守るため奮闘した父。 「そんな父になんにもしてやれなかった」ことを悔やむ毎日。が、避難生活で気づいた。 「一番つらいのは母だ」。それだけではない。先祖伝来の家や土地を失った人もいる。土石流や降灰で苦しむ人たち。「悲しみも苦労もみんなで分け合っている」ことを実感しました。多くの人に励まされ、援助に支えられ、古里の今がある。ひそかに決意したのは「父を亡くした不幸を力にしたい」。逃げんか そ 2そして「僕たち若者が島原を立て直すのだ」と力強く〝復興宣言〟も。智憲君の熱い思いを知ったのは、佐世保市で開かれた「少年の主張県大会」でした。筆者が審査委員長をしていた大会で優秀賞を受けました。登壇者の全員講評で「大災害で次代を担う〝島原っ子〟の健在ぶりにとても感動しました」と智憲君を激励した記憶がよみがえります。6・3前に新聞紙上で元島原市職員の内嶋善之助さん(六九)が噴火災害を体験したさまざまな人たちとの話を基にした、詩集の朗読会も催されるなど噴火災害を語り継ぐ運動も続いています。災害に遭遇し少年の多感な思いを率直にぶつけてきた中学生だった智憲君。いや五十路を前にした智憲さんが重なりました。元気に頑張っている〝おじさん〟ですね。今でも島原っ子魂が脈うっているでしょう。きっと。あの日から31年著・三軒茶屋ニコみどりの風
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