こぶれ2020年3月号
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みどりの風著・三軒茶屋ニコ 現この代ごろではあまり耳にしない言葉をタイトルにしました。  この手の人がいなくなり、ある人を思い浮かべたからです。 昨年暮れ、元社会党委員長・石橋政嗣氏が福岡に居住、老衰で死去したことを知りました。享年九十五。 旧本県二区を足場に衆院議員として中央の舞台で活躍。九〇年引退し以後、消息不明。突然のビッグニュースに驚きました。 戦後、佐世保基地の進駐軍の労働に従事。全駐労幹部で県議を経て一九五五年に衆院選初当選。 外交、安保問題を得意分野に、六〇年の日米安保改定の際は、岸信介首相を国会論戦で論理明快に鋭く追及、「安保五人男」の一人として全国に名を馳せました。 国会における野党の花形は予算委員会。ここで名を売れば党リーダーとして道は開けるからです。 石橋氏は六六年に石橋イズムとも言われる非武装中立論を発表。これを機に党幹部への階段をかけ上がり、七〇年、成田知巳委員長の下で書記長となって七年間〝最強の野党コンビ〟を務めます。八三年、石橋氏は念願の委員長に。 筆者が東京勤務になったのが一年前か。石橋氏は党務で超多忙、赴任あいさつも「よろしく」、私的な交流はゼロ。 委員長に就任インタビューの申し入れ。他の大手記者みたいな交流もなく〝仕事〟としてのこと。 親交もないだけに、地方紙記者の筆者は「一番後あとか」と、のん気に構えていました。 議員会館食堂で昼食のカレーライスをかき込んでいると、石橋氏の秘書が、筆者を探していたらしく「インタビューです」。 それもトップバッター、時間もあと数十分しかない。 「ええッ? なんで……!」。逃げるわけにもいかず、国会論戦の岸首相の心中を思いやりながら予定時間をオーバーする一時間余。 内容は忘却しましたが、たいしたことはないような気がします。でも翌朝は朝刊一面の会見記事。 筆者のせいで武運が落ちたのか? 期待を一身に背負って登場しながら、結局は党勢を上向かせることができない〝悲劇のエース〟として退場です。 最近、石橋委員長との会見記事を思い出すのですが「好きな場所は?」とふいに出たピント外れの質問に「やはり自分を育ててくれた長崎ですネ」。 虚を突かれた口調でなく力強く答えたことと、眼鏡の奥の眼がとても優しかったのが印象にあります。 このくだりは記事にはしませんでした。 筆者には、新聞記者とは――「好奇心と男気」という持論があります。 いま考えると、石橋氏の「地元愛」が、A紙など大手紙でなく、地元紙をインタビューの最初にしたのでは……。 冷徹な理論家で「悲劇のエース」より、石橋さんに人間味と「男気」を感じ、タイトルにした次第です。男おとこ 気ぎ2

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