こぶれ2018年11月号
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みどりの風著・三軒茶屋ニコ 中秋の名月がまだ夜空を彩っていたころ、十数年前に小野田寛郎さんとお会いしました。 長崎市郊外の琴海。医師で総合病院長Kさんの紹介でした。 ゴルフ場のレストランでしたか。 戦後約三十年、日本の敗戦を知らぬまま、ひとりフィリピン・ルバング島で戦い続けた兵士、小野田さん。 物書きのはしくれとして「どんな人間」と言う興味を通り越した神聖な魅力でした。 K医師と小野田さんは、小野田寛郎元陸軍少尉(当時51歳)が高度成長の真っただ中の日本に帰還してからの知己で「小野田さんと会わんですか」の言葉に飛びつきました。 お互い簡単な自己紹介のあと、第一声をどうしたらいいのか。写真で見るより穏やかでやさしい方のようです。 「中秋の名月ですが、フィリピンにもこの月はありましたか」 否定も肯定もなく「………」。 帰国当初は大きな話題となり、年中マスコミにつけ回され、一挙手一投足が取材対象で、その後遺症? もあるのか取材用語には口が重い。 筆者の愚問でした。 ひとりで戦い続けている最中に月を眺める余裕があったか、どうか。 なんとなく気まずいふん囲気になり、お互い無言で食事の料理を口に運びました。 K医師の取りなしに談笑も。約二時間の会食中に「子供は大切です」の言葉が印象にあります。 なかでも心を痛めているのは現代日本社会の凶悪な少年犯罪と心の病。 このため健全な人間形成と自然・社会との共存をはかるため、未来を担う子供たちに自然教育を重んじ、一九八四年からキャンプ生活を通して「小野田自然塾」を開講しています。 ポツリ、ポツリと語っていただいた。 福島の塙町で年中子供を集めて行っていたキャンプは、水がそのまま飲める川を自ら山に入って探し見つけたそうです。 これは初めて知ったエピソードです。 ただ堅いことを言うなら小野田さんには初めがあり幕引きのない戦争という舞台をひとりでやってのけた実感をお聞きしたかったが、これは口にすることが出来ませんでしたな。 こんな人生を生きたにしては、やさしく穏やかで静かな人でした。文字にするのがとてもとても難しいお方です。 和歌山県海南市で生まれ、二〇一四年一月、肺炎をこじらせ東京の病院で死去されました。九十一歳。 ことしの中秋の名月は雨で眺めることができませんでした。 ふと小野田さんのことを思い出しました。ゴルフ場のレストランも懐かしい。 K医師も病院を息子さんに譲り現役を退きました。 小野田さんは得がたい日本人のひとりです。小野田寛郎戦後に帰還した兵士2

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